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優しくされても、苦しいのはなぜ?(後編)──宗教二世の不安と理想化の心をほどいていく


前編では、「正しさ」や「信念」が親子の間に入り込むことで、
愛がすれ違ってしまう仕組みを見てきました。

  ▶︎ 前編を読まれていない方はこちらからどうぞ
    優しくされても、苦しいのはなぜ?(前編)──信仰家庭の中で育った人が抱える心のすれ違い

後編では、そこから生まれる「不安」や「理想化」、
そして“感じる力”を取り戻していくためのプロセスをたどってみたいと思います。


目次

不安に蓋をする心のくせ

前向きでいることや、未来への信頼は、
心の健康を保つうえで大切なものです。

「ポジティブでいこう」「信じていれば大丈夫」
そんな言葉に支えられてきた人も多いでしょう。

けれども、もしそれが「別の思いを出してはいけない」という
空気の圧力の中で続いていたとしたらどうでしょうか。

不安を感じるたびに、自分に言い聞かせて心の奥に閉じ込める。
「弱音を吐いたら負け」「私が悪い」「こんなことを思ってはいけない」


そうして、不安を感じないことが“立派さ”や“信念の強さ”に
すり替わっていく
ことがあります。

これは、集団の中でも、個人の心の中でも起こりうることです。

不安を感じ過ぎても辛いものです。

しかし、感じ過ぎないのもバランスを失ってしまう。

ほどよく不安にも触れながら、それを心で抱えていけることがよいのではないでしょうか。


不安を扱えないまま、大人になる

私たちは本来、幼い頃から
外の世界の不安と、安心をくれる大人との関わりとの間を
行ったり来たりする中で、心の中に「安心の器」を育てていきます。

けれども、不安を感じることそのものを避けてきて、蓋をし続けてきた場合、
その経験が積み重ならず、
ほどよく“大丈夫”を感じながら、前に進む力が育ちにくくなってしまうのです。

そうすると、大人になっても、
答えのない課題で判断していくときや、曖昧な人間関係や葛藤の中でどうしたらいいかわからず、
戸惑いが大きくなります。

安心して誰かに頼ることも、
境界を持って距離を取ることも難しくなることも。

心の中に「安全基地」が育たないまま、
外の世界で行動がともなわず、自立の壁にぶつかってしまうのです。


見捨てられ不安──関係の中で揺れる心

その結果、対人関係においては、次のような
“見捨てられ不安”の特徴が表れることがあります。

  • 人に嫌われたり、離れられることをいつも心配してしまう
  • 相手の反応が冷たいと、不安や焦りでいっぱいになる
  • 承認を強く求め、相手に合わせすぎて疲れてしまう
  • 少しの衝突でも「もう終わりかもしれない」と感じる
  • 関係を失うのが怖くて、相手を束縛したり、逆に距離を取ってしまう
  • 近づくことに敏感になり、心を守るために攻撃的になってしまう

理想化──完全な愛を求めてしまう心

さらには、心が傷つくことを恐れると、
人は「完全に正しい人」や「絶対に裏切らない存在」
信じたくなることがあります。


権威や教え、誰かの強い信念にすがることで、
安心を得ようとするのです。

けれども、そんな“理想的な対象”は、この世に存在しません。
どれほど信じていた相手でも、いつかは揺らぎが訪れます。

すると今度は、相手が少しでも期待に沿わなくなった瞬間に、
心の中で「善いもの」から「悪いもの」へと一気に反転してしまうことがあるのです。


白か黒か、の世界の中で

本当は、人も世界も、そんなに白黒では分けられません。
それでも、「絶対の愛」や「絶対の正しさ」を信じようとするのは、
不安の中で安心を保とうとする自然なこころのはたらきです。

けれども、宗教でも、教育でも、家族の中でも、
「絶対」を求めるほどに、
人の曖昧さや不完全さに触れることが怖くなっていきます。

泣いたり、怒ったり、嫉妬したり、憎んだり、疎外したり——
そんな“生の感情”を持つことが、
まるで悪いことのように感じてしまうのです。

人間関係は、ときに、泥臭く苦く酸っぱい。
でも、その不完全さの中にこそ、生きる実感と、ほんとうのつながりがある。

とは言え、かくいう私自身、まだその真ん中を揺れている途中。

ときには避けたくもなるし、きれいな場所にいたくなる。
それでも、そんな自分を抱えたまま、揺れながら確かめながら道のりを歩いていくー。


理想化と「自我の枯渇」

理想化が強くなると、
自分の中の“よい部分”や、自分自身の力を相手に投げ出してしまい、
心の内側がどんどん貧しくなっていきます。

そして、自分の中の力がすり減っていくうちに、
何を感じ、何を望んでいるのかがわからなくなる。
それが、やがて訪れる「自我の枯渇」と呼ばれる状態です。

自分の内なる力への信頼が失われて、心が疲れていってしまう。


揺れの中にとどまる力を育む

人は誰しも、不完全で、矛盾を抱えて生きています。
その曖昧さを恐れずに受け入れること——。

まっすぐで絶対の正しさではなく、
揺れながらもそこにとどまる力を育てていくことが、
心の回復への第一歩になるのかもしれません。


感じること、ゆるすことを取り戻す

カウンセリングでは、感じることを恐れず、
ときには曖昧さに身を委ねていく時間を大切にします。

「感じてはいけない」「強くあらねば」と言われ続けた心に、
“感じても大丈夫”“ゆらいでもいい”という
新しい体験を重ねていくのです。

胸の奥に手をあてて、

「怖かったね」
「わからなくても大丈夫」
「失敗してもいいよ」

と、自分に声をかけてみる。そんなふうに、安心の器を育ていく。

少しは楽になったとき、不安を感じたり、見つめていけるようになる。

そのこと自体が、“自立”のはじまりにもなっていきます。


愛されたいのに苦しい——その痛みの中にあるもの

“愛されたいのに苦しい”という痛みの中には、
愛を求め、誰かとつながろうとしてきたあなた自身の、
過去からの力や知恵がたくさん詰まっています。

それは、懸命に生きてきた証でもある。
愛されようとした、愛されたかった、その切実さの中にこそ、
人とつながりたいという命の力が宿っています。

どんな環境の中で育ったとしても、
人はもう一度、現実の誰かとのぬくもりの中でやり直すことができる。
私は、そう信じています。


「星の子」に描かれる“ひとり立ち”のかすかな瞬間

信仰家庭に育つ子の姿を描いた、
今村夏子さんの小説『星の子』(朝日新聞出版)があります。

物語のラストでは、少女が両親とともに夜空を見上げ、
流れ星を眺めるシーンが描かれます。

両親とすれ違いながらも、なおそこに共にいるという、
愛と悲しみと痛みのすべてが、その場で交わり合っているように感じました。

少女が見つけた流れ星は、
信じてきた世界が崩れゆく中で、
自分の目で確かな光を世界を見ようとする、
ほんのかすかな瞬間でもあったように思います。

けれど、それははかなく、すぐに消えてしまい、
両親とは共有できない光でもありました。

信じることも、疑うことも、
“誰かの教え”ではなく、
自分の感覚で選び取っていくこと。

それは、ときに、信仰家庭の中ではとても困難になります。

それでも、その“ひとり立ち”の痛みの先にこそ、
広く豊かで自由な外の世界とのつながりの手応えが、生まれていくのかもしれません。


cocorowingのセッションで大切にしていること

cocorowingでは、感じる力を取り戻し、
理想的すぎるのでもなく、安心を育てながら、

現実のつながりを——揺れながらも紡いでいく。

そんな力を育ててくセッションをお届けしています。


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