生き辛さに関わる要因
幼い頃から、親から宗教的価値観を家庭の中で教えられてきたという事実、
どのように受け止めたらよいのでしょうか。
教育なのか、洗脳なのか、虐待なのか。
一人一人、その程度は、違うのだと思います。
個人が、どのくらい宗教2世としての生き辛さを感じるにいたるのか、
その辛さの程度に関わる、3つの要因を見てみたいと思います。
親のパーソナリティーと信仰の強さの問題
親がどのような性格や信仰をしていたのか、両親との関係はどのようであったのか、
これが一つの大きな要因となります。
親が信仰を保つに至ったということは、何らかの生き辛さがあってのことが多いでしょう。
それは、何なのか。機能不全家庭に育ったのか、あるいは、発達の特性なのか、トラウマなのか。
生き辛さの質によっても、親の在り方は異なってきます。
例えば、親自身の育てられ体験から、
育児への不安が強い親で、誰かの「正解」を求めるタイプの親であれば、
信仰は、子どもをコントロールするための最強の子育てツールのようになってしまう。
本来であれば、親は、迷ったり間違えたりしながらも、子どもの反応や様子を見て、態度を修正していきます。
けれど、元々、融通が効きにくい、あるいは、生真面目である、論理的合理的な思考タイプであるなどの場合だと、
「〜あるべき」で、ためらいもなく教義を後ろ盾にした強い態度や、
時には暴言暴力に出てしまい、
しかも、宗教組織をバックに正当化されてしまうので、止める術がなくなってしまう。
そうなると、子どもは、絶対的な支配のもと、無意識的に服従させられる関係になります。
疑問を持つ余地すら生まれなかったり、
疑問を持つこと自体に恐怖や罪悪感を感じるようになることも。
親子の関係、家族関係によって、宗教的価値観の伝わり方が異なってくるのです。
両親それぞれの信仰の強さはどうだったのか。
信仰が生活のほんの一部だったのか、あるいは、日常生活の隅々にまで常に及んでいたのかによっても、
異なってくるでしょう。
「常に」「絶対」の程度によっては、子どもは、自分の欲求や感情を無意識の隅においやり、
自分らしさを感じ取ることができないままに、抑圧されていきます。
一方で、親が信仰を持ちながらも、ある程度、家庭が平穏であったり、
信仰だけでない文化も豊かであったり、
精神的に安定し、子どもにも余裕を持って選択する権利を与えることができている、
支配的にならず、対等に話し合う関係をもつことができれば、
宗教2世であったとしても、それほど、大きな生きづらさには繋がらない可能性もあります。
自分自身のパーソナリティーの問題
同じ環境で育った兄弟であっても、その影響が違ったりもする。
一人一人の性格特性によっても、親の信仰をどう受け取るかは異なってきます。
論理的に物事を考えるタイプであれば、よくも悪くも教義を冷静に捉えられるかもしれない。
感受性の高さや敏感さが強ければ、より葛藤を持ちやすくなるかもしれない。
過剰適応的になりやすいタイプであれば、親や教団に迎合しすぎて、
自分らしさがわからなくなるかもしれない。
といったように、親からの影響に加えて、本人がどういう性格特性を持っているのかということによって、
親や教団に対してのスタンスが異なってくることもあるでしょう。
教団の性質の問題
すべての宗教団体が有害とは限らないにしても、
教団の性質がどのようなものだったのかというのは、大きな要因です。
団体の中で、どの程度自由な発言が認められていたのか、疑問を感じたり口にしたりする余地があったのか、
金銭的な要求はどのくらいあったのか、信仰活動のための拘束時間はどのくらいだったのか、
自由な行動をどの程度制限されたのか、
そして、教団の仲間同士がどのような関係性だったのか、
パワハラ的な絶対服従を求める関係性はあったのか、
仲間で監視し合うような要素もあったのか。
外部との接触が制限されたり、脱会を裏切り行為として扱っていたかどうなのか。
このような程度によって、「自分の人生はここにしかない」という信念が刷り込まれていく程度が
決まってきます。
宗教2世問題は、教団側からすると、親の問題、子育ての問題とされるかもしれません。
個人からすると、全ては親の問題とか、教団の問題だと言いたくもなる。
けれども、実際には、この3つの問題が重なり合ったところ、作用しあったところに、
さまざまな生き辛さが発生しているという視点が必要なのだと思います。
同じ宗教二世だからといって、単純な断定や比較は、できないのです
罪悪感と恥
多くの宗教2世が抱える生きづらさの問題に、
罪悪感の問題、恥の問題、居場所の問題が大きいのではないかと思います。
宗教の教えは、「恥」の感覚に訴えるものも多い。
「恥」の感覚は、人間社会にとって大事なことでもあります。
周りの人を大切にしようね、自分勝手な行いはいけないよ、
人への思いやりを持つことが良い行いだよ、
これらは幼い頃から社会性を身につける上で、子どもたちが学んでいくことです。
こんな振る舞いをみんなの前でしたら恥ずかしいことだな、
こんな感覚を持つことは健全な発達でもある。
けれども、宗教においては、教義によって、必要以上に「恥」が刺激され,
閉じられた集団の中で、同調圧力的なプレッシャーを受けていきます。
「こうであるべき」「これはしてはいけないこと」など、
いわゆる良いか悪いかの二元論的、白黒思考的な信念が刷り込まれていってしまう。
すると、曖昧な感情であったり、そもそもの生きる上での必要な欲求などが抑圧されていき、
理想的な姿ではない自分はだめな存在だという、恥を抱きやすくなります。
教義に反する自分への強い自己否定や、
教えに背くことや親の世界から離れることへの罪悪感やジレンマが生まれてくる。
大きすぎる罪悪感や恥を背負わされていたりするのです。
これに気づいていくこと、消化していくこと、白黒思考を和らげていくこと、
という時間をかけての作業が必要になってくるのだと思います。
世間からの偏見
いわゆる伝統的な宗教だと、比較的偏見を持たれにくいかもしれませんが、
特に新興宗教は、偏見を持たれやすい。
日本では、多くの人は、決まった宗教を持っていないし、
持っていたとしても、自分の宗教は明らかにしないことが一般的です。
それは、相手との不要な対立を防ぐために大事なことかもしれないし、
一方で、警戒心を抱かれることや、偏見をもたれることを恐れてということもあると思います。
宗教の価値観に生きるというのは、一般的社会的価値観とは異なる、
オリジナルの物語の中に生きている側面がある。
それぞれの宗教の世界観、独自の言葉、そして独自の信念体系の中に住んでいます。
宗教二世は、自分が最初から望んでいないにも関わらず、
宗教を持っていることに対して、偏見にさらされる可能性があることに加えて、
もしも、宗教から離反する立場に立った時には、
今度は宗教の中の人から「裏切りもの」という偏見にもさらされる。
どちらにも理解されない受け入れられないという、
二重の偏見に苦しむことになる。
そして、宗教の話は、身近な先生や友人、医者やカウンセラーとかの支援者にも言いにくい。
だって、誰しも変に思われたくない、独自の言葉が通じない「恥」が刺激されたくないですから。
それに、目の前の支援者は、もしかしたら、自分と全く異なる宗教をもっているかもしれない。
あるいは、その葛藤は深く無意識に追いやられていて、自覚なく心身の不調に現れていたりして、
そもそも宗教的な葛藤やトラウマについて言葉にすることすらも、
難しかったりするかもしれない。
さらには、やっと言葉にできて話せたとしても、
支援者側も、宗教に対して独自の見解や偏見があったりして傷ついたり、
逆に、極端にそこに触れることが恐れられていたりタブー視されていて、
問題の消化につながらなかったりするかもしれません。
とにかく、行き場や語り場がない。
都合の悪いことは触れない、明らかにしない、隠すとか、察するべきというような空気感が強い、
独特の日本の風潮の影響もあって、
いろいろと複雑なことが起こっているのだと思います。
アイデンティティーの問題
アイデンティティーとは、「自分は何ものであるか」という、精神的土台になる部分です。
心理学では、思春期や青年期の課題とされていて、
劇的な心の内側の変化を余儀なくされ、それに伴う大きな混乱が起こり、
それを越えながら、成長過程の中で、アイデンティティーを獲得していくと言われています。
多くの場合は、いろんな人や物事との出会いや仲間に支えられながら、たくさんの価値観にもまれながら、
自分らしさや自分の価値観を確立していきます。
宗教二世の場合にも、この「自分は何ものなのか」という問いや、
教義と内面とのズレを感じるときが、ふとやってきたりする。
けれども、結果的に親から受け継いだ宗教の世界の中で生きることを選択し、
自分なりに考えて自分なりの解釈をし、自分らしさを見出して確立していく人もいる。
これも、否定されるべきでもないのだと思います。
このパターンだと、親とも葛藤や軋轢が起きにくいでしょう。
とは言え、特に親の支配度や教団のカルト的要素が強い場合、
抜け出すことへの恐怖が無意識に潜在的に植え付けられている場合、
そもそも「自分で考える」ということ自体が制限されていることも多いのではないでしょうか。
なので、親から受け継いだ宗教を、一見、自分の意思で継承しているようであっても、
本当に自分で考えられているかのかどうなのかということ自体、
実際には疑問だったり、曖昧だったりすることもある。
なんの問題もないように見えていても、
人の成長というのは、時の流れの中で、
環境の変化や人との出会いの中で、
与えられてきた世界にずっといられなくなる時が来たり、
自分の中のもっと別の一面が現れて出て来ることもある。
そんな心に蓋をし続けていけば、強大な圧力がいる。
そこにエネルギーを費やしていると、自由に行動するエネルギーが出てこなくなってしまうんです。
何かをきっかけに、蓋が外れ、拠り所にしていた世界が崩れ去ってしまったとき、
どうしても、アイデンティティーの危機、混乱が起こってくる。
その時には、やっぱり誰かの支えや仲間や、丁寧に自分をケアし育てていくということが必要になります。
添木のように。
支えすらも得られにくい危機的な状態に陥ってしまうこともあるし、
うまくいかないと、何か健康的でないものへの依存にはまっていってしまう形になってしまいかねず、
その人が自分らしく生きていくことや、自由が、再び制限されていく悪循環にはまってしまいます。
だからこそ、安全に語れる場、もう一度、自分の感覚を丁寧に見つめて、
自己を再建していく過程が必要になります。
そして、親や教団の価値観から離れるならば、
新たな、健全な、搾取されない、楽しめる場所、居場所が必要になっくる。
それを少しずつ見つけ出していく必要も出てきます。
どうやったら、宗教二世は幸せになるのか、どこに居場所を作れるのか。
教団との関係はどうするのか、信仰はどうするのか、
親子関係には、どう折り合いをつけていったらいいのか。
一つの答えはありません。
その人が、その人なりの生き方や、幸せを選びとっていけること、
丁寧に自分の心の声に向き合って、自分を見出していくこと、
私にとっての価値観を紡ぎ出していくこと、
そして、「自由は、わたしにもある」「私は、私の感覚に従っていい」
このことが、心身がともに腑に落ちること、そんな旅路が必要になるのだと思います。